必要悪という言葉は英語にもあるようで、辞書をひくと「necessary evil」と書いてある。
ただ、日本語の「悪」のイメージと「eveil」は深さが異なるように思える。
eveil は「悪」ではなく、「邪悪」「よこしまな」と訳されていて、悪の中の悪、ピュアな悪であるイメージだ。
だから、私達は、「必要悪」という言葉に出くわした時に、それが、「必要だから許される悪」ではなく、「本質的には相当な悪である」という事をきちんと認識すべきであると思う。
抑止力だとか、電力だとか、「必要」な面ばかりフォーカスして本質をごまかそうとしている「力」が過分に働いているが、そのようなものに惑わされずに、「悪」という側面に向き合わなければならない。
まして、それが、自分たちの国の将来を左右する重大事であれば、「必要」という仮面をまとった「悪」を見過ごしてはならないはずだ。
沢山の言い訳や詭弁に惑わされる事なく、「悪」を「悪」として正しく認識して、一人一人が自分の意見を、自分の態度を決めるべき時なのだ。 最早マスコミはあてにならず、インターネットも玉石混交、他人の意見に同調する事なく、無闇に反する事なく、多くの事実に基づく情報と生命普遍の倫理観を持って「自分」の意見を持つ事が求められている。
その結果、総意が「必要」を選択するか「悪」を拒むか、それによって、日本という国の未来が大きく変わろうとしている。
私の意見は定まっている。戦闘は最終的には人殺しだし、人殺しは絶対的に悪である。程度の問題ではなく、その方向へ一歩でも進むことは間違いだと感じる。電力は必要だ、喉から手が出る程欲しいものだが、しかし、人の命、いや地球という惑星の命を犠牲にしてまで得る必要があると考えるのは、人間のエゴだ。 人は食物連鎖の頂点に立っているかもしれないが、結局は地球上の生命の一つに過ぎないし、頂点に立っているからこその責任を負っているということを忘れてはいけない。
教えてください。貴方はどう思っているのか?「必要」を取るか「悪」を取るか。自分が自分の生活とはほとんど接点の無い場所の戦争で、誰の為かも曖昧なまま自分が死ぬか見ず知らずの誰かの命を奪わなければならない選択に迫られている状況、自分の家の隣にある発電所が確実に生命を脅かす量の放射線を放出しているその状況を想像した時、貴方はどちらを選択するのでしょうか?
今はまだ、自分をちっぽけな存在だと考えたり、特別な行動を起こしたりする必要は無いと思うのです。日本という国が正しく機能していて、一握りの独裁的権力ではなく国民の総意が政治に反映されるのであれば、個人個人が考え、判断し、それを表明し、家族、友人、同僚、同級生、人と人のつながりのなかでそれぞれの意見を否定することなくはっきりと確認しあえば、きっと何かが変わるはずです。
私も「必要悪」と「お目こぼし」という言葉に、
以前、引っかかったことがあり、
個人的意見をさせていただきますね。
戦争などの兵器による「人殺し」は、
それだけを聞けば、もちろん個人的には「悪」だと思いますが、
仮に、日本が戦争を仕掛けられ、
自分の身内を含む、多数の日本人が殺されて、
自衛隊が反撃して「人殺し」を行ってしまうことは、
これも「悪」なのでしょうか?
他にも、江戸時代などにおける、
悪党に身内を殺された方の「敵討ち」は
「悪」なのでしょうか?
原発に関していえば、あんな制御の出来ないものは、
私個人的には「大反対」です。
ただ、自分や家族が、原発の仕事でご飯を食べていたら、
「大反対」出来るかは自身がありません。
大多数の人が物事を「悪」と判断しても、
人の立場によっては、それを「悪」とは言い切れず、
仮に、それらを「悪」というのなら、
それも「必要悪」なんだとも思います。
マスコミ、インターネット、書籍、知人・友人・家族の話など、
沢山の「情報」が氾濫する世の中ですが、
「情報を、如何に判断するか?」によって、
「正義」と「悪」、「必要」と「不要」も変わる訳で、
人の立場によって、意見が変わるのも仕方ないことかとは思います。
問題によっては、少数意見が「悪」とも言い切れず、
その逆に、多数意見が「正義」とも言えないと思うのです。
(「グレーの物事が沢山あっても良い」と思うようになりました)
それら意見を、(半ば無理やり)納得するために、
「多数決」ないし、「民主主義」があるのだとも思います。
ごちゃごちゃ書きましたが、私の基本的な考え方は、
はじめさんとほぼ同意見なんですけどね。。(笑)