自転車の補助輪というのは、まったく自転車に乗れない時はありがたいものだが、
なるべく早く外さないと、それを頼ってしまって、なかなか外せなくなるものらしい。
この補助輪を外す感覚というのは、自転車だけでなく、大人になってからも
様々な経験の中で思い出す事がある。
例えば、ピアノの練習だが、
・楽譜を覚えてしまわないと弾けない
・鍵盤を見なければ弾けない
・強いフォルテを鳴らしたいのに、鍵盤から指が離れない
・逆に、安定させて確実に弾きたいのに、(音が鳴ってしまいそうで)鍵盤に指をおいておくことができない。
ピアノを習いたてのころは、とにかく必死になんとか一曲を弾けるようにと
こういうことを助長してしまうような練習をしてしまう。
逆に、最初からピアノの先生みたいに、楽譜を見ながら手元も見ずに
大胆かつスラスラと演奏できる訳ではないので、仕方のない事だ。
しかし、何年か習ってくれば、自分でも気づかないうちに、楽譜は少し読めるようになるし
鍵盤を見なくてもだいたい指が目的の鍵盤に乗せられるようになってくる、
この時こそが、補助輪を外すタイミングだ。
ここで補助輪を外さずに頼ってしまうと、いつまでも外せないまま。
補助輪を付けたまま自転車を練習しても、なかなか自転車の本当の楽しさを
感じる事ができないし、練習したほどにはうまくならないというのも似ている。
水泳のビート板や、アイススケートの補助そり?とかも似たようなものか?
ふと、思い立って、自分を信じて、補助輪を外してみる。
最初は当然うまく行かないだろうが、あとはコツなのだ。何回かやっていれば
だんだん飲み込めてくるものだと思う。
昨年あたりから、なんとなくそういう事がわかりかけてきたのだが、
そのせいか、最近はピアノの練習が面白い。
相変わらず忙しいのと発表会前でエレクトーンの練習が大変なので、
なかなか進まないが、補助輪を付けたままだったらわからなかった
おもしろさというものが少しわかってきたような気がする。
ところが、みかこさんの教室の生徒さんの中には、なかなか自分で補助輪を
外すことができない生徒さんも居るようだ。その曲を弾けるだけの力を
持っているのに、補助輪に頼ってしまっているので思った様な演奏にならない、
補助輪使用が長いので、恐怖心でなかなかそれが外せない。
結構辛いジレンマだと思う。
幼い日、「後ろを押さえていてあげるから、大丈夫だよ」と親に言われて、
思い切って補助輪なしでこぎ出した自転車。
親が押さえてくれているという安心感で、軽快にこぎ出す。
ふと気づくと、親は遙か遠くで私が補助輪無しの自転車を漕いでいるのを
笑って見ていた。
親と子の信頼関係、そして、それを素直に信じる子供の心があっての事で
誰にでも使える手ではないかもしれないが、
教えるという事の本質はそういう事なのかもしれない。
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