義母のあっぱれな人生

3・11という何とも覚えやすい日に義母が87年の人生の幕を閉じました。

妻と結婚して2年後、1994年に自宅を建てたのを機に同居を開始して、2012年まで、18年を一緒に暮らしました。その間、つまらない事で喧嘩もしましたが、ボウリング(義母はめちゃくちゃ強いです)に行ったり、庭でジンギスカンをしたり、時には旅行に行ったりと、大きな同居のストレスを感じる事もなく楽しく過ごしてきました。先程改めて計算して、家を建ててから30年間の間の18年、半分以上は一緒に暮らしていたのだなと改めて時の流れの速さを感じます。その後、突然一人暮らしをしたいと言い出し、アパートを探し始めましたが、我々と暮らすのが嫌になったということではなく、純粋に一人暮らしをしてみたいという事や、義弟の事などがあったのかと思います。パーキンソンだという事がわかったのもこの頃で、まだ身体にはそれほど大きな影響は見られませんでしたが、流石に最初に見つけてきたアパートの2Fの部屋(外階段)はNGを出しました。

そのあと、(やや)高齢者向けの食事付きのシェアハウスのようなアパート?に決定しました。そこに住み始めてしばらくしてから、突然病院に連れて行ってくれないかという電話がかかってきて、それまで病院へ連れて行ってくれていた義弟と喧嘩したとかで、電話がかかってきたようでした。迎えに行ったら、入居時に家具類を整えて住みやすくアレンジしたはずの部屋が大変な事になっていて、パーキンソンの投薬管理が自分でできなくなり、これはなんとかしなければと思って病院で相談したら、ケアマネジャーさんを紹介されて、そこからケアマネさんを中心として介護が始まりました。介護といっても、大変な感じではなく、ケアサービスを利用して投薬管理と部屋の清掃をお願いしながら、しばらくはそこで一人暮らしを続けていこうという方針でした。まもなくしてそれでもパーキンソンが進行して、これはパーキンソンの特徴なのですが、階段は割とスムーズに登り降りできるのに、フラットな床を歩くのは非常に大変になってしまいます。視覚的な目標が無いと足が出ない状態で、例えばフラットな床でも、レーザーポインターで足を出す先を示したり、ロープなどで目標を作ると歩けたりするのですが、この状況は、他の住居者からの理解を得られず、共同生活に支障が出るようになり、2013年の10月秋に、高齢者用マンション(個室)へ引っ越しました。

そこは、エレベーター付き、食事付き、介護付きで、病院の送り迎えも全部やってくれたので、我々も安心で、義母もより快適な暮らしが出来るようになりました。しかし、この頃から、今考えれば認知症が始まり、いろいろと問題行動が出てきました。まだ車を運転していたので、車を降りるように言ってみましたが、拒否され、このままではあぶないと、パーキンソンの先生に相談して、もう運転は難しいと言ってもらってようやく免許証を返納しました。我々もその可能性を疑っていただけで、本人はまだ認知症だということに気づいていません。車を降りたら、今度は、歩いて買い物に出ていくようになり、帰れなくなるという事が続き、マンションも、もう限界だという事で、出して欲しいと言われるようになりました。

しかし我々も仕事が忙しい時期で、また妻は自宅でピアノを教えているので、認知症の義母を自宅で介護するというのは難しかった為、ケアマネさんに相談して、認知症対応のグループホームを探すことになりました。幸い近所にすぐに見つかり、2015年の2月には、グループホームへ引っ越したのですが、認知症ということもあり、また、それまでのマンションでの自由な生活と比べて、ある程度管理された状態での生活に慣れるのには大変で、最初の1年くらいは、まずいろいろな問題を起こして大変でした。グループホームからも、出ていって欲しいと言われ、もう少し、もう少しとお願いしつつ、精神科の先生に薬をいろいろと試してもらうなかで、パーキンソンの薬と認知症の薬の折り合いポイントを見つけて、暴力的な行動が収まり、ようやく落ち着きました。ただ、グループホームは、町内は良いのですが、パーキンソンの病院(小樽)までは送り迎えしてくれないため、それからは毎月、途中からは2ヶ月ごと(毎月になる場合もあった)に病院へ連れて行かなくてはならず、車への乗り降りや、病院でのトイレの世話など、私も介護的な事をすこしだけ学ぶ必要がありました。結局グループホームで8年間という長い期間を過ごす事になりましたが、ホームの人たちには本当に感謝しかありません。しかし最後の数年はもう完全に車椅子生活となり、認知症も進行して、そろそろホームでの生活も難しくなってきていたことと、金銭面で難しくなってきた事もあり、友人の勧めもあって、2023年の2月に、特養へ移りました。(移ったといってもホームとは目と鼻の先です)

特養は4人部屋ということもあり、義母の年金の中で、底を尽きかけていた貯金を切り崩すこと無くなんとかやっていける金額で、一安心でした。介護やレクという面ではグループホームの方が手厚いのですが、特養も食事の世話などを丁寧にやってくださって、言い方はおかしいかもしれませんが健康的な生活が継続できていました。実際時間はかかるものの、出された食事は完食して、病院での血液検査の結果も、いつも私より良いほどでした。ただ、やはりいろいろと老化の為の問題も出てきて、腸捻転になったり膀胱炎になったりで、我々も時々呼び出されました。特養から夜に電話がかかってくるとドキドキします。2ヶ月程度に一回の小樽の病院への通院も続いておりましたが、コロナの間は、病状が安定していることもあり、義母をつれていかず、我々だけで薬を貰いに行くという事も多かったです。この通院のタイミングが義母に会えるタイミングでもあったため、コロナの間は、グループホームの玄関から入ることもできなかったので、義母に会える機会がかなり減りました。そうこうしているうちに認知症が進行して妻のことはわかるのですが、私の事はわからなくなってしまって、「グループホームの人」くらいの認識になってしまったようです。「誰だっけ?」と言われた時はショックでしたが、仕方のないことですね。

そして、先日 2024/3/11 月曜日の夜に、特養ではなく、病院から電話があり、義母がベッドで息をしていないという連絡があり、15分で駆けつけたところ、先生から説明があり、膀胱炎が良くなり、翌日12日には退院予定だったところ、夕食を食べたあと、寝ている間に夕食をもどしたのか、窒息して息が止まっていて、今延命措置をしているところだとのこと、行ってみるとすでに息も脈も止まっているのに、無理やり心臓マッサージをしている状態。1時間もこれを続けているとのことで、とにかく、時系列もめちゃくちゃで、納得行かないことだらけの説明だったのですが、明らかに絶命して死後硬直も出ているのに、無理やり心臓マッサージを続けるのはかわいそうなので、妻が、もうやめてくださいと言って、23時12分御臨終ですとの医師の宣言をもって、臨終となりました。この病院の対応については今でも納得がいきません。しかし、何をしても、失われた命は戻ってきませんから、義母の死を受け入れて、今我々にできる最善の事をして、魂を見送ろうという事になりました。

私は、実母を大学生の時に亡くしまして、その時は父が親戚一同に手伝ってもらいながら喪主で、その父が亡くなった時は、私は北海道でしたので、横浜で父と一緒に居た弟が喪主を努めて、この時も親戚にいろいろ手伝ってもらって葬儀を行ったので、ほとんど経験が無く、それが今回周りに頼る人も居ない中、妻と二人でしたので、何をどうすればよいのかまったくわからない状態でした。義母はあと数年は大丈夫だと思っていただけに、本当に突然の事だったというのもあります。まず最初に病院に言われたのは、直ぐに遺体引き取りの為に葬儀屋さんを手配して欲しいということで、地元の葬儀屋さんに電話しました。真夜中でした。葬儀といっても参列者は近くに住んでいる叔父・叔母と私達夫婦2人くらいのものですから、なるべくコンパクトに行おうと妻と決めて、直葬を考えたのですが、流石にお経も戒名もなくて良いのものかと思い、義母の菩提寺に電話したところ、住職が直ぐに対応してくださるということ、ただし直葬はやったことがないので、それなりの形を考えてくださるということになり、結局、自宅で通夜、翌日お見送り、戻って、還骨勤行という流れとなり、更に我が家はピアノ教室であるため、スケジュールを考えて、49日の繰り上げ法要も執り行うという段取りとなりました。段取りが決まれば、あとは葬儀屋さんがうまく手配してくれて、そのまま流れるように事が進みまして、もろもろ含めて1週間でほぼ終わった感じです。こういう事がスムーズにいくのも、本当に義母らしいと感じます。旅行に行けば天気が良く晴れで、病院につれていく日もなぜか、前後が大変な天気でも、その日だけは晴れ。最初のアパート、次の高齢者用マンション、グループホームの時もスムーズに決まり、難しいと思っていた特養もあっさり空きが出て、ほとんど待つことも無いといった感じで、何故か特に段取りをしていないのに、まさにその日という時に導かれるように決まっていきます。

私の実母は、子供だった私から見ても、理想的な主婦で、家事をきちんとこなして、家の中も整理整頓されていて、掃除も行き届いていて、料理も抜群に美味しかったです。そんな母しか知りませんでしたので、世の中の「おかぁさん」というのはみんなそういうものだと思って育ちました。それが、結婚して、義母と同居するようになって、真逆とまではいかないまでも、まったく違う「おかぁさん」にかなり面食らいました。掃除はめちゃくちゃだし、料理はカラーバランスが悪くて食卓が白いし、冷蔵庫には昭和か?と思うような古い得体のしれない冷凍ものが眠っていたり、ボウリングや麻雀など、戒名に「遊」の文字が付くような遊び人でもあり、かなりのカルチャーショックです。人間的には愛されキャラで、教室の生徒さんやご近所の方など誰からも好かれる人で、私も義母が好きでしたが、私の母親に対するステレオタイプは見事に打ち砕かれた感じです。何故かという理由など無く、そういうキャラだとは思っていたのですが、30年前、同居を始めた頃の義母の年齢を超える歳になってみて、改めて考えてみると、義母の人生は、本当にあっぱれな人生だったなぁ、これぞ自分の理想とする生き方とも重なる部分が多いと思います。

義母は離婚をしていましたので、一人で二人の子供を育てた事になります。とは言ってもタイミング的には二人共成人していましたが。パン屋さんで働いていて、毎日、それこそ雪の日も暑い夏もトラックで、隣町までパンの販売に行ってました。隣町との間のトンネルが崩落した時も、別ルートで山越えして行っていた事を覚えています。パンの販売にかける気迫はすごいものがあり、とにかく休まず、毎日かかさず行ってました。そして、妻と義弟のふたりを見事に育て上げたということはすごいことです。同居してからは、住居費等々は私達が負担していましたが、その分、食費の大部分は義母に頼っていました。今思えば、部屋がごちゃごちゃなのも冷蔵庫がごちゃごちゃだったのも、仕事と家事の両立だったということもあったと思います。もちろん性格的なものも十分あったとは思いますけどね。そうやって助け合いながら3人の18年間の暮らしがありました。ひとが良い面があって、電位治療器みたいな悪徳商法にひっかかりそうになったり、ポーラの販売員を友だちだと信じて騙されて無駄に高い化粧品やサプリや、水のボトル?みたいなのを買わされたりするので、その度に止めて、説得するのに、ぶつかったりしたこともありました。家族会議みたいにして説得したこともあるのですが、ある時、「私はあなたたちの世話にはならないから、心配無用」と言い放って、もしかしたら、そのあたりが一人暮らしをすると言い出したきっかけだったのかもしれません。こちらは、「そんなわけにはいかないだろう」と思っていたのですが、とりあえずやってみればわかる。いつでも戻ってこれるようにと考えていたところ、上で書いたようなアパート=>高齢者マンション=>グループホームといった流れとなりました。もちろん、その間、引っ越しやら、マンションやグループホームで問題を起こして呼び出されたりとか、通院やら入院やら各種手続きやらといろいろと「世話」はしましたし、やはり「世話にならない」わけにはいかないよねと思ってましたけど、改めて思えば、特に介護で大変だったということも無く、我々は我々の仕事をきちんとこなせていましたし、人生を捧げるというような事は無く、義母には感謝です。ここは、妻の努力も大きかったのですが、特に公証役場で代理人として認めてもらえた事が大きく、それが無ければ、妻の実家の売却や義母の口座の管理、各種保険の手続きなど、難しかっただろうということは沢山あります。本人は認知症でそういう判断ができなくなっているのに、その本人の判断を必要とするようや手続きが山ほどあって、公だけでなく、民間の保険会社の手続きなど、そういった制度の矛盾を感じます。本人の為になんとかしてあげたくても、権限が無くてできないという人も多いのではないでしょうか?委任状をもってこいと言われても、委任状すら書けない状態なのですから。成年後見人という制度もあるようですが、あれはめちゃくちゃ大変ならしいですね。我々も2回くらい弁護士に相談したのですが、弁護士もなんともできないという話でした。その2回目の相談の時に、もしかしたらということで、公証役場の話が出て、そこから道がひらけた感じですので、知らない人も多いのではないでしょうか。

そんなわけで、いわゆる「世話(辛くて大変な介護)」という事をしていません。また、70までパン屋で働き、その後、なんと、クロネコヤマトに、「体力には自信があります」と申し込んで雇ってもらうという快挙を成し遂げた事もあって、年金も、最初のアパート暮らしから、特養までカバーするだけあったので、経済的な負担もまったくありませんでした。家具の購入など手伝ったところもありますが、親子なら当然といった程度で、請求するつもりももありませんでした。更に言えば、パン屋を退職したときに、人生最初で最後の自分の車を買ってもいます。そして、最後の1年を特養に移した事で、この度の葬儀代も、義母が残したものでまかないました。ここへきて、私はようやく、「あなた達の世話にはならない」という義母の言葉の意味を理解しました。

私は、昨年 60となり、定年を迎え、これからの自分の人生を考え直すきっかけがあり、仕事や金銭面や趣味等々考えることが多くなりました。幸せな人生とは何かと考える時、大きなヒントを与えてくれる本に、Die With Zero という本があります。

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幸せとは、良い思い出である。お金ではない。お金で幸せは買えないけど、ここぞというところで有効にお金を使う事で、良い経験をすれば、その思い出が複利となって、人生を何倍にも豊かにしてくれる。しかし、死ぬまでお金を貯めて沢山お金を持って死んでも、それは幸せな人生とは言えない。人間が良い経験、思い出を作るには、健康寿命という限りがあって、それは、死ぬまでの寿命とは違う。つまり、死ぬ時はゼロ、丁度使い切るのがベストであって、それ以上のお金は人生には不要だし、お金を貯めるだけの人生には幸せがないということだ。振り返って考えれば、義母は、本人が明確に意図していたかどうかはわからないけど、まさにこれを実践していたとも思える。子供を育てて、好きな仕事をして、引退後も健康を保つためにクロネコで働いて、自分のお金で車を買い、それで自由に走り回って、一人暮らしを堪能して、娘夫婦の人生を狂わせるような負担はかけず、最後は葬儀までスムーズに終わらせた。雪深い時期でもなければ、暑い夏でもない絶妙なタイミング。だけでなく、戒名も何故か通常より3文字も多い立派なものを頂いて、おまけにこれは我々夫婦の判断でもあるのだけど、当面は納骨をせず遺骨を自宅に安置することとしたのですが、義母の部屋にはもともとちょうど良い仏間があり、そこにピッタリと収まって、気がつけば、この家に戻ってきて、毎日娘のピアノ演奏を聴くことができるのである。よくよくみれば、弟夫婦からや、わたしたちの友人(本人の友人ではなく、娘夫婦の友人)から届いた立派なお花に囲まれて、少し照れた表情で、「どうだい」と言っている様な遺影である。いろいろあったと思うし、いろいろあるのが人生だと思うけど、幸せな人生の一つの形を見せてもらった気がする。

改めて言いたい。 おかぁさん、あっぱれ! 良い人生の手本を見せてもらいました。

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