GyaOで、『ドッグヴィル』を見た。
何故映画を見るのか。映画に何を求めているのか、
時々そんな事を考える。
映画に限った事ではなく、小説でもTVでも同じだ。
自分はそれに何を求めているのだろうと。
もっと、雑に言ってしまえば、自分にとって面白い映画とは何か
と言った方がわかり易いとは思うが…
あまりにもありきたりな日常を描いたものであるなら、
特に興味も、感動も生まれないと思う、
かといって、極端に飛躍した状況も見ていて辛いものがある。
そういう意味では、この映画は私にとって、かなりバランスの
取れたものだった。有り得るようであり有り得ない状況を描いているのである。
そして、もうひとつ、映画の何を見ているのかといった事を考えるに際しても
興味深い映画だった。
私にはこのセットはまったく違和感を覚えるものではなく、
かといって、このセットの効果を取り立てて騒ぐものでも無い。
おそらく私は、「セット」を、その状況、ストーリー、登場人物の心を補足するものだと
とらえているのだろう。
それに必用十分であれば、スタジオに線で描いた壁であっても
なんら違和感を覚えなかった。
「必用十分」という事に関しては、とても計算されていて、
ドアは目には見えないが、ドアを開ける音はする。
草は無いが、雑草を抜く音は聞こえる。
それはまるで、効果的に用いられた本の挿絵のようなものだ。
そう、この映画はそんな、挿絵の入った小説のようなものだと思う。
豪華なセットや、主演が誰だとか、そんな視点で見る映画を選んでいる
人は選ばない映画かもしれないが、私にはかなり印象に残る映画であった。
また、これは私の写真に対する考え方にも通じるものがあるかもしれない。
写真は、それ自体の美しさ、バランスの良さ、面白さも大切だが、
写真として切り取られた”時間”を語っていなければならないと思う。
その”時間”が、実際に流れた”時間”である必用は無い。
まったく別のものでも構わないのだが、見るものの創造力を刺激し、
そこに”時間”を感じさせる事ができる写真が私は好きだ。
余市のはじめさん、お久です。
年賀状のアドレスにアクセスしブログを見ました。世間では近頃流行っているみたいだけれど、さすが、ずっと前からブログしていたんだね。「必要」って漢字は違うけど。。
さて「写真」の比喩は言い得て妙だね。私の言い方だと「空間や時間を超えた絶対的な本質の表れ」、ね。それらから切り取られた「写真」を見ることによって、主観が超越した彼方を思うことができるのよ。プラトンのイデアとかカントの物自体ってやつ。
なんて、ちょっとカッコつけてみました。
昨年夏、読書会の課題のある小説を読んでいたら、主人公の好物が「サクランボジャム」で、おいしそうなシーンがいっぱいあった。それを試そうということでネットで検索して余市の農園から取り寄せました。味は、ん~こんなものだろう。
あと、腰痛の記事も読みました。私も悩んでいて、椅子やらクッションやらを変えているんだけれど、だめね。おすすめがあったら教えてね。
最後に、弟の歓迎会を来月に行う予定。
ほんじゃ~。。。
おや。しん先生お久しぶりです。
その節はどうも。
あと、弟の事よろしくおねがいします。
さて、「絶対的な本質」についてですが、私は「絶対」というものがわかりません。
絶対と思っても、それは多くの人の意識の中での共通認識であったりしますし、一人でも異論を唱える人が居れば、それは絶対では無くなってしまいませんか?
私という人間の本質を考えても、それは今の空間と時間抜きには考えられませんし、私の経験も、たまたま偶発的に起こった事象の積み重ねに過ぎないと思います。もちろん私の意志が何らかの選択をする事で、そこに作用しているとは思うのですが、その私の意志そのものも、私の経験に基づいているわけですから、やはり絶対的なものとは言えない様な気がするのです。
なんでこんな事をぶつくさ言うかと言うと、「絶対」という考えは非常に疲れます。「自分はこういう人間だ」とか「こんな風に評価された」とか、「この写真はこういうつもりで撮ったものだから、そう見て欲しい」とか。「絶対」には、自分を追い込んでしまう危険があると思うのです。それどころか、他人に自分の意見を押し付ける事にもなりかねません。
自分の意思を捨てるという事ではなく、それは必要条件だとして、その上で、他人は他人、自分が絶対そうだと信じている様には他人は感じていない事が多いものだと考える事、言い換えれば、他人の考えを受け入れる事ができるようになって、私はずいぶんと肩の力が抜けたように思います。
腰痛に関しては、
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393713443/249-0022245-0646764
を一読される事をお勧めします。
その上で、日常椅子に座って仕事される事が多いようでしたら、http://www.momoda.co.jp/stokke/actulum.html
をお勧めします。
個人差があることですから、誰にでも効果があるわけでは無いと思いますが、この椅子はすごく良いですよ。
それでは。また。
昔もなんだかんだ議論して楽しかったね。あ~ジンギスカン囲みながらと、余市へと心は飛んでいく。
さて、
ちょっと「絶対」の使い方が違うような。。。
「絶対巨人の方が強い」
「絶対イラクの方が正しい」
「絶対こうした方が得だ」
などの使い方なら、せいぜい「価値観の対立は争いを生むから、他人の意見を尊重し、共生しましょう。」がオチだろう。
私の「絶対」は「超越」に近いかな。
たとえば、太古から何故人間は同種のものを見て美しいと思うのか、J.S.バッハの無伴奏チェロとか花鳥風月。形式は時代・社会背景によって変わるけれどもね。もちろんそれらを毛嫌いする輩もいるだろうが、感性が閉じているだけだろう。うまく説明できないが最近そう考えはじめている。時間や空間を超えた何かを。もちろん神ではないが、神的なもの。
はじめさんの合理的な因果関係で「意志」をもとらえてしまう思考は、おもしろいね。しかし、そうすると何もかもが宿命論に陥らないかな?
椅子のHPをみたが、結構なお値段。しかし、買う気になっている。この痛みはpriceless。
「感性が閉じているだけだろう」と
否定的に考える事が危険なのですよ。
無伴奏チェロ。今の私にはバッハの偉大さは多少なりとも理解できますが、妻と出会う前の私は、クラッシックは全否定でした。
しかしクラシック音楽に全く魅力を感じなかったとしても、それはその人に問題がある訳ではないと思うのです。そういう意味で、バッハは絶対的に素晴らしいものでは無いと思うのです。
素晴らしいものは、それを素晴らしいと思う人が居るから素晴らしいのではないでしょうか?
「超越」という事についても実は一言言いたいです。
ある範囲を超越したら何があるのか、きっと別の範囲が存在するのではないでしょうか?どこまでいったら、本当にこれ以上何者にも限定されない世界に辿りつけるのでしょうか?なんて思ってしまいます。
つまり、「絶対」も「超越」も更に大きな視点で考えればやはり「相対」になってしまうのではないでしょうか? 屁理屈なのかもしれませんけどね。
バッハの音楽は素晴らしいですが、日本の古典音楽もまた素晴らしいですし、実際西洋の音楽も少なからず日本の音楽の影響を受けていますよね。花鳥風月は味わい深いものですが、北極圏や、赤道直下で一生を過ごす人にその味わいを説いて理解してもらえるものでしょうか?
神は「神=自身の良心」と捉えています。これについては長くなるので、今度会った時にでも。
「宿命論」は、今のところ違うといいたいです。「宿命」という表現はある意味諦めのニュアンスがありますが、別に諦めているわけではありません。
自分を超えた者から見れば自分の選択は既に決まっているものかもしれませんし、あるいは取るに足らないものかもしれませんが、自分にとってはそれは重要な選択だと思っていますし、自分がしたその選択を自分を超えた何かのせいにするつもりもありません。
ある意味言葉遊びなのでしょうけどね。自分の力の及ぶ範囲を「絶対」と表現するならそれも良し。しかし、その範囲ですら客観的に考えるならばもっと大きな何かの範囲に属する「相対」という事になってしまうのではないかと、そんな風に思うんですよね。
そういう意味で、自分の理解が及ばないから、といって絶対と決めたくは無い。自分には、誰が見ても良いもの、悪いものと思えるけど、それは単に自分の理解が及ばないだけで、また別の価値観が存在すると思うのです。
だいたい、「絶対」とか「普通は」なんて言葉は、議論に行き詰ったときに使う表現だったりすることだったりするし、とっても胡散臭い。(^^;
「そんな事絶対に無い」ってのは、それ以上証明できなくなった時の常套句だし、「あんたは普通じゃないよ」ってのも、自分の意見を相手に押し付けようとして失敗したときのセリフでしょう?
椅子ですが、ネットでも幾つかのお店で売っていますが、紹介したURLのお店が、私が探した中では一番安いです。他のお店より1万円くらい違いますので、購入されるのであれば、まずは見積を取ってみてください。
「神=自身の良心」という考え方は大賛成だよ。
いろいろ探し回ってあとに、自分の中に見つけたメーテルリンクの「青い鳥」のよう。あと、千と千尋の神隠しの主題歌(いつも何度でも)「海の彼方には もう探さない 輝くものは いつもここに わたしのなかに 見つけられたから~」。
さらにそれは、私の願いに近いものだけれど、「真で善で美なる意志」であり、全人類に共通している。だから「北極圏や、赤道直下」の人々と同じように感じ、連帯できるはず。しかし、まだ社会が未成熟だから、違うレベルでの価値観の相違から争いが起こる。偏見や先入観の色眼鏡でものを見ず、あくまでも自分自身で観察し、考えることができないのね。啓蒙の時代を脱していないから。
そしてそのシステムやプロセスに、何か超越した存在を感じ始めている。生かされているって感じ。全体と共有しながらね。
「まあ~そんな考え方も相対的だよ」と言われれば、みもふたもないよね。
腰の本と椅子、手配しました。色はブルー、はじめさんとおソロだといいな。だって「ブルーラクーン」つながりだしね。
椅子。しんとおソロでもあまり嬉しくないけど…。(^^;
でも、実は私の椅子も青です。
それと、ブルーラクーンじゃなくて、ブルーラグーンじゃなかったっけ?懐かしいなぁ。
最近は全然ギター弾いて無い。(^^;
椅子、来たよ。腰がホールドされていていいみたい。
体重移動が楽。いいもの薦めてくれて、サンキュー。
でも足の付け根に負担がいくような気がして、ちょっと不安。
腰の本も読んだけれど、読み物としては面白い。
「病は気から」という結論だろう。個人的にトランス・ パーソナル系には不信感があるからね。昔は興味津々だったのに。
次は、首筋のこりと目の奥と中指の痛み。何か便利グッズでもあれば、紹介してね。
椅子いいでしょ。(^^)
個人差あるから、どうかなって
思っていたんだけど、合いそうだね。
ソリに慣れてくると、足への負担は減ると思うよ。時々ソリの上に足を乗せたりとか、背もたれにもたれかかったりとか、椅子になれて、体を自然に動かす事ができるようになってくるともっと楽になると思う。
首筋、目の痛みも、椅子の効果は少しあると思う。
私も仕事がらつい前のめり状態になったりするけど、時々休みながらゆったりと仕事をするように心がけると良いんだろうね。
眼精疲労は、眼鏡を調整すると軽減されるかもしれない。合わない眼鏡は予想以上に目に負担をかけるからね。
私は、今年の春に眼鏡を変えてからずいぶん楽になった。
なんと、今回から遠近両用だ!
この映画、映画館で見たかったんですが、さやがまだ小さかったので、まだ未見です。問題作ばっかり撮ってる監督で、作風はあまり好みじゃないんですが、「ドッグヴィル」はセットに興味があって見てみたいと思いました。
今、早くみたいなぁと思っている映画は、「ダヴィンチ・コード」が楽しみです。6月ころ封切りかな。