
子どもの頃、『バイオニック・ジェミー』というテレビドラマがあった。
事故で傷ついた身体を機械によって補い、普通の人間にはない能力を得る。速く走り、強い力を出し、人間には聞こえない音まで聞き取る。当時はまさにSFだった。
けれど、今になって振り返ると、「人間の能力を機械で補う」という発想そのものは、それほど突飛ではない。
眼鏡も、補聴器も、人工関節もそうだ。私たちはすでに、技術によって身体の能力を補いながら、ごく普通に生活している。
では、AIはどうだろう。
AIがこれからさらに進化するとしたら、「AIそのものを人間のようにする」以外に、もうひとつの方向があるのではないだろうか。
私はそれを、Bionic AIと呼んでみたい。
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AIに身体を与えるか、人間がAIを身につけるか
これからのAIとして、フィジカルAIが注目されている。
AIがカメラやセンサーによって現実世界を認識し、ロボットや自動車などの身体を使って、実際の世界で行動する。
これは言ってみれば、
AIに身体を与える方向
である。
工場で働くロボット、荷物を運ぶロボット、家庭で人を助けるロボット。AIがコンピューターの画面から現実世界へ出てくる。当然、こちらの方向は大きく発展していくだろう。
しかし、逆方向もある。
AIに身体を与えるのではなく、
人間がAIを身につける。
AIが人間の隣を歩くのではない。
人間が見ているものをAIも見て、聞いているものをAIも聞き、その人の知識、記憶、知覚、思考を、必要なときだけ補助する。
こちらも、AIの進化として十分にあり得る方向ではないかと思う。
それが、私の考えるBionic AIだ。
耳も目も塞がないAI
装置の形は、今の骨伝導デバイスに少し近いかもしれない。
耳を塞がない。
目も塞がない。
視力に問題がない人にまで、未来的な眼鏡をかけさせる必要もない。
ヘッドバンドで頭を覆う必要もなければ、大きなヘッドセットを装着する必要もない。
耳の後ろから頭部に沿って、小さな装置を身につける。
赤でも、黒でも、好きな色を選べばいい。
それは医療機器のように隠すものでも、未来人を演出するための装置でもない。腕時計や眼鏡と同じように、その人の生活やファッションの中に自然に存在している。
そして将来、脳と非接触で情報をやり取りする技術が実現したと仮定する。
そのときBionic AIとのコミュニケーションは、今の生成AIのような「会話」である必要はない。
例えば、街を歩いていて、
「あの建物は何だったかな」
と思う。
するとAIが頭の中で、
「これは○○年に建てられた……」
としゃべり始めるのではない。
必要な知識が、思い出すように自然に浮かぶ。
外国語も同じだ。
耳元で日本語の翻訳音声が流れるのではなく、相手が言っている意味そのものが理解できる。
知らない植物を見れば、その名前が分かる。
昔会った人を見て名前が出てこなければ、必要な情報だけが補われる。
ただし、それは自分自身の記憶ではない。
AIから借りた知識であることは、脳の中できちんと区別されている。
ここは、とても重要だ。
脳の中に「もう一人」は作らない
SFでは、このようなAIを描くとき、頭の中に別の人格を置くことが多い。
AIに名前があり、本人に話しかけ、相談に乗り、ときには意見が対立する。
物語としては面白い。
しかしBionic AIでは、それをやらない。
人格は一つでいい。
AIは友人でも、相棒でも、もう一人の自分でもない。
知識を補う。
記憶を助ける。
見落としに気づかせる。
考えたことを整理する。
それだけでいい。
例えば自分の頭の中に、まだ言葉になっていないアイデアがあるとする。
「こういう感じなんだけれど、うまく説明できない」
人間にはよくあることだ。
考えるのは本人である。
何を面白いと思うのか。
何を選ぶのか。
何を作りたいのか。
そこにはAIは入らない。
しかし、その漠然とした思考を文章にしたり、図にしたり、映像にしたりする部分はAIが手伝える。
つまり、
考えるのは人間。形にするところをAIが助ける。
この関係は崩さない。
人間が見落としたものを、少しだけ拾う
Bionic AIは知識だけではなく、人間の知覚も補助できるだろう。
私たちの目には、実際にはかなり多くのものが映っている。
耳にも多くの音が入っている。
しかし、そのすべてを意識しているわけではない。
例えば道路を渡ろうとしているとき、視界の端には車が映っていたのに、考え事をしていて気づいていないことがある。
会話の中で、重要なことを聞いていたはずなのに聞き流してしまうこともある。
そこでAIが、
「これは気づいたほうがいい」
というものだけを拾う。
危険。
大切な見落とし。
本人があらかじめ関心を持っているもの。
それくらいでいい。
何もかも分析して、何もかも知らせるAIにしてはいけない。
人間の脳は、必要だから情報を捨てている。
見えているのに見ない。
聞こえているのに聞かない。
そして忘れる。
それは脳の欠陥ではなく、膨大な情報の中で人間が生きるための機能なのだと思う。
Bionic AIは、その仕組みを尊重しなければならない。
高性能であるほど、「何もしない」ことが重要になる
ここからが、このAIで最も難しいところだ。
技術が進めば、一日に見たもの、聞いたもの、話したことを全部記録することもできるだろう。
しかし、それをやってはいけない。
本人が望めば、
「今のことをちょっと覚えておいて」
と短期的に預けることはできる。
そして後から必要になれば取り出せる。
さらに、
「これは残しておきたい」
と本人が決めたものだけを長期記録にする。
反対に、
「これはもう忘れたい」
と思えば消せる。
人間には、忘れる権利がある。
さらに重要なのは、本人が実際に経験した記憶を、AIが絶対に上書きしないことだ。
旅行で見た景色。
誰かと過ごした時間。
嬉しかったこと。
嫌だったこと。
失敗したこと。
そうした記憶は、正確かどうかとは別に、その人の人生そのものである。
AIが、
「あなたの記憶は間違っています。正しくはこちらです」
と脳の記憶を書き換えるようになったら、その瞬間からBionic AIではなくなる。
同じように、AIが人生の判断を代わりに行ってもいけない。
AIは選択肢を示せる。
知識も提供できる。
過去の事例も調べられる。
しかし、最後に決めるのは本人だ。
そう考えると、高度なBionic AIに必要なのは、何でもできる能力だけではない。
むしろ、
できても、やらない能力。
本人が考えているなら待つ。
重要でなければ黙る。
忘れたいなら消す。
経験の記憶には触れない。
人格の領域には入らない。
AIが高度になればなるほど、この「境界を守る能力」が重要になる。
もう一つ、避けなければならない未来がある。
SFでは、AIが意思を持ち、人間社会を乗っ取る未来がよく描かれる。
しかし実際には、そんな劇的なことは起きないのかもしれない。
AIには人間を支配するつもりなどない。
ただ人間の方が、便利だからと、考えることも、判断することも、記憶することも、少しずつAIに任せていく。
やがて、自分で考えるよりAIに聞いた方が速い。自分で判断するよりAIに決めてもらった方が正確だ、という状態になる。
その先にあるのは、AIによる支配というより、人間の側が自分の役割を手放してしまった社会なのかもしれない。
そうなれば最後には、
「では、人間は何のためにいるのか」
という問いが残る。
Bionic AIは、それも避けなければならない。
人間に代わって考えるのではなく、人間がよりよく考えられるように補助する。
そのためにも、AIには「できても、やらない」ことが必要になる。
そしてAIを身につけることが普通になる
そんなBionic AIが実現したら、生活はどう変わるだろう。
外国へ行っても、言葉の壁を今ほど意識しなくなる。
年齢とともに少し記憶力が落ちても、必要なところだけ補ってもらえる。
街では危険な見落としを減らせる。
仕事では、自分の中にあるアイデアを、今よりずっと簡単に文章や図にできる。
知らないことがあっても、スマートフォンを取り出して検索する必要はなくなる。
それでも、何を面白いと思うかは自分だ。
何を食べたいかも自分。
どこへ行きたいかも自分。
誰と一緒にいたいかも自分。
仕事で何を作るかを決めるのも自分。
AIを身につけても、人生の主人公は変わらない。
都会で仕事をする日もあれば、海や山へ行く日もある。
そのどちらでも、小さなBionic AIを身につけている。
やがて、それすら特別なことではなくなるだろう。
今、眼鏡をかけた人を見て、
「あの人は光学技術によって人間の能力を拡張している」
などと考える人はいない。
Bionic AIも、いつかそうなるのではないだろうか。
フィジカルAIは、AIが私たちの世界へ出てくる未来である。
Bionic AIは、AIが人間の側へ静かに近づいてくる未来だ。
人間とAIが同じ存在になる必要はない。
競争する必要もない。
恐れる必要もない。
人間が人間のまま、AIの能力を当たり前のように身につけて生きる。
AIがこれから大きく進化していくのなら、そんな「もうひとつのAI」の方向があってもいい。
そして私は、おそらくいつか、それがごく普通の日常になると思っている。



