GyaOで、『ドッグヴィル』を見た。
何故映画を見るのか。映画に何を求めているのか、
時々そんな事を考える。
映画に限った事ではなく、小説でもTVでも同じだ。
自分はそれに何を求めているのだろうと。
もっと、雑に言ってしまえば、自分にとって面白い映画とは何か
と言った方がわかり易いとは思うが…
あまりにもありきたりな日常を描いたものであるなら、
特に興味も、感動も生まれないと思う、
かといって、極端に飛躍した状況も見ていて辛いものがある。
そういう意味では、この映画は私にとって、かなりバランスの
取れたものだった。有り得るようであり有り得ない状況を描いているのである。
そして、もうひとつ、映画の何を見ているのかといった事を考えるに際しても
興味深い映画だった。
私にはこのセットはまったく違和感を覚えるものではなく、
かといって、このセットの効果を取り立てて騒ぐものでも無い。
おそらく私は、「セット」を、その状況、ストーリー、登場人物の心を補足するものだと
とらえているのだろう。
それに必用十分であれば、スタジオに線で描いた壁であっても
なんら違和感を覚えなかった。
「必用十分」という事に関しては、とても計算されていて、
ドアは目には見えないが、ドアを開ける音はする。
草は無いが、雑草を抜く音は聞こえる。
それはまるで、効果的に用いられた本の挿絵のようなものだ。
そう、この映画はそんな、挿絵の入った小説のようなものだと思う。
豪華なセットや、主演が誰だとか、そんな視点で見る映画を選んでいる
人は選ばない映画かもしれないが、私にはかなり印象に残る映画であった。
また、これは私の写真に対する考え方にも通じるものがあるかもしれない。
写真は、それ自体の美しさ、バランスの良さ、面白さも大切だが、
写真として切り取られた”時間”を語っていなければならないと思う。
その”時間”が、実際に流れた”時間”である必用は無い。
まったく別のものでも構わないのだが、見るものの創造力を刺激し、
そこに”時間”を感じさせる事ができる写真が私は好きだ。