人の好みは多種多様で、文化が異なればそれは更に拡大する。
しかし、美しい思う感覚の根っこの部分は、実は共通しているのではないかと思う。
例えば、ロックミュージックが好きな人であっても、クラシック音楽の美しさは否定できないし、ロックミュージックの中の美的な部分とクラシック音楽のそれには共通性を見出すことができる。 これは写真であっても、映画であっても、同様。
美しいものとはどういうものだろうか?
逆を考えてみると、私が美しくないと感じるものは、ゴミ、雑然とした状態、フェアでない事、暴力といったもので、これらは、精神的であれ肉体的であれ、人を傷つけるものだ。
ゴミを減らすにはどうすれば良いだろう、ゴミについての知識を得て議論することも大切かもしれないが、それだけではゴミは減りそうにない。大切なのはゴミがない状態を美しいと思う心を育てて、多くの人がその状態を好み、日々の生活の中でそれを意識する事だと思う。
同様にアンフェアで暴力的な問題を解決するには、その問題性を議論することの大切さはあるにせよ、フェアで平和的な解決を美しいと感じ、多くの人がそれを好み、なんらかの対立があった時に、美しいと思える方法を選択しようとする心を育てる事が大切だと思う。
まして、美しくない方法に、美しくない方法で対抗することに何の意味があるというのだろう。それは美しくないものを増やすだけであって、それだけ多くの人が傷つく事になるだけだ。
お店のトイレなどで、「いつも綺麗にお使い頂いてくださり、ありがとうございます」という張り紙を目にする。まさに美しいものに目を向けさせることによって、美しくないものを減らそうという素晴らしい試みだと思う。そんな方法ももっとトライすべきだろう。
暴力を抑止力だとか必要悪だと誤魔化さず、思い切って放棄してしまって、それにつぎ込む予算を人を助ける事に使うのはどうだろうか。自衛より救援の方がずっと美しい。
美しいものとは、人を成長させ、美しくないものから解放するための polar star かもしれない。