鈴木雄大 東京者

時々思い出しては聞きたくなるアルバムNo.1 は、やはりこれ。今日も聴いている。

古き良き時代の東京、思い出の中の東京、私が好きな東京を思い出すからだろうか。

 特に5曲めの、生意気そうなロンリー・ガール が好きで、若い頃からはかなりヘビーなローテーションで聴いていた。東京といっても住んでいたのは福生というところで仕事帰りには奥多摩有料(当時は有料だった)をバイクで走りに行っていたことなんかを思い出す。夜間は通行止めでゲートが7PMくらいだったので、青梅(奥多摩湖)側ゲートぎりぎり滑り込みで五日市(現在のあきる野)へ抜けるのがパターン。

 夏は毎年有給やらなんやらを集めて1週間以上の長期休暇にして鈴鹿8耐を見つつ南紀ドライブに行っていた。バイク(GSX-R1100)の時は無しだが、車(ギャラン)で行くときはカーステ(レオ)があるのでずーっと音楽を聴いていて、PSYS とか KAN とか久保田、大江千里 なんかに混じってこれを聴いていたように思う。

 当時はカセットテープという、今の若者の中には知らないという人もいるようなメディア。CDはあったが、レンタル屋で借りてきて家でカセットにダビングして車で聴くというのが主流。今だったら Google Play Music にアップロードしている曲が 15,000曲程度もあるし、月契約もしているから、スマホをカーステに繋げればランダム再生で数日どころか数年?何もしなくても同じ曲がかかることが無いほどだが、カセットテープというのはせいぜいCD1枚分なわけで、ドライブ中に交換するのも面倒になってくると必然的にヘビーローテーションになる。(当時ヘビーローテーションなんて言葉は無かったが…)で、ようやく交差点か何かで気が向いて交換しようとするんだけど、そんなタイミングで、こういう好きな曲がかかると、結局交換せずに聴いてしまう。そのうち嫌でも歌詞を覚えてしまって、車の中が一人カラオケ状態になってしまったら最後、ローテーションから抜け出せなくなる。

鈴木雄大の声には、聴き続けたくなる魅力というものがあるのかもしれない。

カラオケになかったり、Google Play Music になかったり、Youtube で聴ける曲が少なかったりするのが残念。

 思えば、カセットって音楽をアルバムで聴くのには最適だったような気がする。何しろテープなわけだから、曲のスキップとか、繰り返しとかは滅多にやらない。最初から最後まで続けて聴いて、もう一回聞きたい曲があったら全部聴いて再度頭からかかるのを待つような聴き方だった。今ならすぐに選曲ボタンを押してしまったりするけど、最初はいまいちだと思っても何回も聴いているうちに好きになる曲というのもあるし、アルバムを一曲目から連続して聴くことで見えてくるものもあるような気がする。CDの時代になっても、車で聴くときは、10連装プレイヤーみたいなので聴いていたのでスキップせずにローテーションが多かったが、アルバム一つローテーションから12枚ローテーションになったので一回のドライブというより1年を通してローテーションみたいな…そしてメモリプレイヤーになって、もはやローテーションという概念は消えた。

もっともヘビーローテーションという言葉はメモリプレイヤーが出てきてから耳にした言葉で、初期のメモリプレイヤーは入れられる曲数も少ないうえに、カセットやCDのようにメディアを持ちあるいて交換するような事もできなかったので、ヘビーローテーションにならざるおえないという事情もあったのかもしれない。

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鈴木雄大 東京者 への2件のフィードバック

  1. kaz のコメント:

    デジタルで受けた恩恵の反対側、失われたものの話ですね。レコードアルバムのB面1曲目とか、フイルムカメラの24枚撮りとか、パソコンの64kbのメモリ制限とか、本のサイズや厚みとか、新聞記事の文字制限とか、買い物に行く移動や届けられるまでの時間とか、個人が発信できる情報とか…、ものすごく変わったなぁ、と思います。制限がなくなって自由になった代わりに制限の中で作ってきたセオリーみたいのも壊れて、戸惑うんですよね。でも、結局、学生時代にカセットテープのA面終わったら登校みたいな自分ルールが、プレイリストの何曲目でだいたい1時間だから、もう雪かきやめて、シャワー浴びて、出勤しなきゃ、なんてルールに変わっているだけで、やってること、あんまり変わってないなぁ、って思ってます。ズレてたらごめんなさい。(^^)

  2. はじめ のコメント:

    そうそう。そうなんですよね。変わったことに上手く対応できればそれは歓迎すべきことなのでしょうけど、そう簡単ではないものもあるし、対応出来ているつもりでも心が何か寂しさや虚しさを感じることもあります。便利なのは良いことだけど、便利なら良いと言うものでもない。多様なジャンルの技術の確立、日々生まれる知の蓄積は進化なのか、変化なのか。実は種としての根本的なところはたいして変わっていないか、むしろ退化しているようにも感じることがあって、そういった違和感なのかもしれません。

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